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news · 29日 4月 2024
古利根川
自宅から歩いて30分ほどのところにこんもりした塚がある。今は散ってしまったが桜の樹が一本植わっている。周囲は麦畑でどこを見渡しても塚に行く道は見当たらない。農家の人に申し訳ないと思いつつ、麦を踏み分けて行ってみると、市の案内板があり、経塚古墳、径30m、高さ3mの円墳とある。ほんとうにちっちゃな古墳だ。 「前橋台地は利根川が赤城山と榛名山の山麓の間から、関東平野に流れ出した所に広がる緩傾斜の台地である。」(『前橋風・創刊号』)利根川は前橋台地を突き抜けて南北に流れているが、以前は台地のへりに沿って、赤城山の南山裾を流れていたという。現在の広瀬川である。昔はダムや堤防など治水などなかったので、大雨のたびに広い川幅になって関東平野を流れ下った。 現総社から東善町にかけての台地の北東側にはかつて数多くの古墳があった。台地のヘリにあたる朝倉広瀬地区に限っても150基はあったという。前橋台地の古墳群の脇をとうとうと流れる古代の利根川の風景を思い浮かべると何かロマンを感じる。
news · 17日 3月 2023
敬愛する人事コンサルタント太田隆次氏の著書『万葉時代のサラリーマン』に触発されて「平安時代のキャリアウーマン」という古典エッセイを書いている。いまは『枕草子』である。清少納言は和歌を詠むスキル、中国の古典など漢籍の知識、当為即妙なレスポンス力などその才気煥発ぶりは、平安時代のキャリアウーマンのなかでその有能さにおいて随一である。紫式部は『紫式部日記』のなかで、そんな清少納言を「得意顔で利口ぶって書いているけれども、漢字も漢文もわかっていない。あんな人の行く末なんかたいしたことないわ」(田辺聖子訳)とけなしている。清少納言と紫式部は宮仕えの時期が数年ずれていて、二人が実際に顔を合わせたことはなかったと言われる。他のキャリアウーマンに対するその辛辣な批判ぶりから、紫式部は底意地の悪い性格だったのではないかと、好みが清少納言派と紫式部派に分かれるようだ。来年のNHK大河ドラマは紫式部が主人公のようだ。二人がどんな風に描かれるか、いまから楽しみだ。
news · 10日 9月 2022
夜と霧
8月27日(土)の日本経済新聞の「文化」欄のそれは、俳人黛まどか氏の「態度価値」と題された文章であった。八十八歳になったご母堂が度重なる病や骨折で要介護状態になっても、金毘羅参りの夢を持ち続け、苦しいリハビリの後、ついに785段の石段を自らの足で登り、金毘羅参りを実現した話である。そこで引用されているのが、フランクルの『夜と霧』だ。「きわめてきびしい状況でも、また人生最期の瞬間においても、生を意味深いものにする可能性が豊かに開かれている」。これまで何度となく読んだ『夜と霧』を書棚から取り出して、改めて読んでみよう。
news · 22日 10月 2021
ベオグラード日誌を読む
「朝5時、群青の空に満月が光っていた。こどもの光の鞠を天使がうけとめて…」 「ふと顔をあげると、あわいばら色の空気が白い壁を染めていた」 『ベオグラード日誌』は、ベオグラード在住の詩人山崎佳代子氏が綴った2001年から2012年までの日誌だ。私がブルターニュに赴任していたのが2006年から2011年までなので、日誌の後半分が重なる。同じころヨーロッパの西と南に住んでいたとわかると親近感がわくが、自分のブルターニュ日記とは人生に向き合う姿勢、ひとに注ぐ眼差し、綴る言葉の凝集度など、月とスッポンほども違う。もっとも比べること自体おこがましいのだが。 山崎さんは40年以上旧ユーゴスラビア(現スラビア)に住んでいる。1990年代のユーゴ紛争でも現地にとどまった。NATOのトマホークが飛んできた、などの記述もある。現地の住民との交流、コソボからの難民とのふれあい、友人との別れ…。抑制された文体から生きていることの重み、哀しみ、喜びが伝わってくる。 『ベオグラード日誌』を読んで、ふうっと深い息をする。背筋がぴんとのびる。
news · 18日 9月 2021
「#就職しよう」(株式会社アドバンスフロー)のサイトに、群馬で働きたい、群馬に転職したい方に向けたアドバイス記事を書きました。興味のある方は見てください。 記事のURL:https://find-bestwork.com/agent/22156/ TOPページのURL:https://find-bestwork.com/
news · 07日 2月 2021
ルワンダ中央銀行総裁日記
服部正也著『ルワンダ中央銀行総裁日記』を再読する。この名著を最初に読んだのはいつの頃だったろう。私がこれまで読んだ本のうちで最も感銘を受けた本のひとつだ。再読してみて、その感想は変わらない。ルワンダのために真摯に取り組む誠実さと、困難にも粘り強くかつ柔軟に立ち向かう行動力、現地人や外国人に対する偏見や蔑視を持たない人間性にすがすがしさを感じる。通貨改革や経済再建計画の策定をめぐる国際通貨基金やベルギーの銀行などとのやりとりは、なまじの経済小説よりはるかに面白い。旧植民地宗主国の外国人やインド系商人とのやりとりは手に汗握る。ページを繰るのがもどかしいほどだ。1960年代に、日本から遠く離れた外国で、たった独りでその国の発展につくす困難さは、並大抵ではなかっただろう。海外駐在員として、著者と同様6年間仕事をしたが、我が実績を振り返ると穴があったら入りたいほどである。
news · 15日 7月 2020
私が民生委員として見守り対象としている一人暮らし高齢者の中で、古いラジオ、タイプライター、オルガン、ミシン、扇風機など何でも再生してしまう達人がいます。
news · 21日 7月 2019
『日本のいちばん長い日』のなかで歩兵第7連隊の記述があるのは、クーデターを企図した兵士が近衛師団長を殺害後、ニセの師団命令を発する。その命令のなかに「五、歩兵七長ハ主力ヲ以テ二重橋前宮城外周ヲ遮断スヘシ」と書かれた部分。第7連隊長はこの命令を受け取ったが、近衛師団司令部に確認する過程でニセであることが判明したため、結局その命令に従っての行動はしなかったようだ。 それにしてもこの“軍歴書”のようなものを父はなぜ書いたのだろう。書いた日付は記されていないが、明らかに戦争が終わったあと、母との結婚後に書かれたものだ。 戦争が負けて終わってしまえば“軍歴書”は何の意味も持たないはずだ。戦争のことを語ろうとしなかった父であったが、戦争時どん経歴であったかは父にとって記しておくべきことだったのだろう。 “軍歴書”が挿んであったアルバムには軍隊当時の写真がていねいに貼ってあり、写真の脇には上官や同僚の名前が一つひとつ記されている。父にとって軍隊の経験は消し去りたくない、何ものかであったにちがいない。 もし第2連隊に属していたら、父は徹底抗戦に与したであろうか。
news · 21日 7月 2019
実家を整理していて父親のアルバムに挿んであった履歴書のようなものを見つけた。内容は職歴でなく、軍隊歴であった。昭和18年2月歩兵第115連隊入隊から始まって、昭和20年8月18日の復員までが記されている。その間、斉斉哈爾(チチハル)着などの記述もあるので満州へも行ったことがわかる。私があっと思ったのは、8月15日の終戦時は近衛歩兵第7連隊に属したことを目にしたときだ。 半藤一利の『日本のいちばん長い日』を思い出したからだ。終戦の直前、ポツダム宣言受諾を拒否し徹底抗戦を主張する陸軍の一部の兵士が宮城を占拠し、クーデターを起こそうとした事件があった。改めて読んでみると、宮城占拠事件を起こしたのは近衛歩兵第2連隊であった。父は第7連隊に属していたのでこのクーデター未遂事件には加わっていない。しかし、当時間違いなく皇居周辺にはいたに違いない。その時、どんな情報が流れ、宮城占拠を知ったときどう思ったのかなど、是非父に聞きたかった。 戦後、戦争を経験した元兵士の多くはほとんど戦争のことを語りたがらなかったという。父もそうであった。私もあえて聞こうとはしなかった。
news · 10日 6月 2019
県立図書館でたまたま目にした棚に森内俊雄の名があった。え!?まだ生きていたのか・・・。森内俊雄を読んだのは20代の頃、もう40年も前のことだ。当時好きだった女性から勧められた。『幼き者は驢馬に乗って』『骨の火を』読んだ。キリスト教の背景があるので理解しずらい部分もあったが、痩せ細った作者が想像される、ある種の魅力を持っていた。しかしその後はすっかり忘れていた。大きな評判になる作家ではなく、寡作でもあったからだ。今度手に取った『道の向こうの道』という作品は2017年12月に出版されている。早稲田露文の大学時代のことを書いたものだが、よくここまで記憶していたものだとまず驚嘆した。李恢成なども登場する。「あたりまえのことを、あたりまえに書いて、そのあたりまえが、あたりまえでなくなる境界を書きたい」とあとがきにある。「その一 飛行機は南へ飛んで行く」の冒頭が秀逸である。

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