news · 29日 4月 2024
古利根川
自宅から歩いて30分ほどのところにこんもりした塚がある。今は散ってしまったが桜の樹が一本植わっている。周囲は麦畑でどこを見渡しても塚に行く道は見当たらない。農家の人に申し訳ないと思いつつ、麦を踏み分けて行ってみると、市の案内板があり、経塚古墳、径30m、高さ3mの円墳とある。ほんとうにちっちゃな古墳だ。 「前橋台地は利根川が赤城山と榛名山の山麓の間から、関東平野に流れ出した所に広がる緩傾斜の台地である。」(『前橋風・創刊号』)利根川は前橋台地を突き抜けて南北に流れているが、以前は台地のへりに沿って、赤城山の南山裾を流れていたという。現在の広瀬川である。昔はダムや堤防など治水などなかったので、大雨のたびに広い川幅になって関東平野を流れ下った。 現総社から東善町にかけての台地の北東側にはかつて数多くの古墳があった。台地のヘリにあたる朝倉広瀬地区に限っても150基はあったという。前橋台地の古墳群の脇をとうとうと流れる古代の利根川の風景を思い浮かべると何かロマンを感じる。
06日 12月 2023
石垣りん
石垣りんの未刊詩集が発行されたと、昨年の今頃新聞に出ていた。その詩集を発行した南伊豆町の町立図書館内の「石垣りん文学記念室」に一度行ってみたいと思いながら果たせないでいる。 現代詩は難解なのが多くとっつきにくいが、石垣りんの詩はそんな私でも読める。エッセイの名手と言われるのは向田邦子だが、石垣りんのエッセイも味わい深い。その中でも「花嫁」と題したエッセイが最も印象に残る。800字程度の短いものなので全文を引用してみる。 私がゆく公衆浴場は、湯の出るカランが十六しかない。そのうちのひとつぐらいはよくこわれているような、小ぶりで貧弱なお風呂だ。 その晩もおそく、流し場の下手で中腰になってからだを洗っていると、見かけたことのない女性がそっと身を寄せてきて「すみませんけど」という。手をとめてそちらを向くと「これで私の衿を剃って下さい」と、持っていた軽便カミソリを祈るように差し出した。剃って上げたいが、カミソリという物を使ったことがないと断ると「いいんです、スッとやってくれれば」「大丈夫かしら」「ええ、簡単でいいんです」と言う。
04日 11月 2023
ギル・エバンス
モダンジャズの帝王と言われたマイルス・デイビス。1950年代、若きマイルスは「カインド・オブ・ブルー」を始めジャズ史上に残る数々の名盤を発表した。その中にギル・エバンスとコラボした作品がある。「マイルス・アヘッド」「ポーギーとベス」「スケッチ・オブ・スペイン」である。ギルはカナダ生まれの白人の作編曲家。当時編曲の報酬は1曲あたりいくらと定額払いだった。いくらレコードがヒットし、売れてもその富と名声は全部マイルスのものになった。でもギルはそんなことに拘泥しなかった。ひたすら自らの音楽を追求し続けた。収入は不安定、しかも商業的な仕事はがんとしてやらなかったのでいつも貧乏だった。妻だったアニタはこの評伝のなかで、こども2人抱えて、銀行口座の預金残高は0、食事にも事欠き、マイルスにお金を借りに行ったことがあった、と言っている。フレンチホルンやチューバなど低音楽器を使ったギルのオーケストレーションは音の魔術師ともいわれる華麗なものだ。1980年代、ギルはオーケストラを率いてニューヨークのジャズクラブ“スイート・ベイジル”で毎週月曜夜に出演した。当時CDでそのライブ演奏を聴き衝撃を受けた。
20日 9月 2023
独り身のときに西日暮里のアパートに住んでいたことがあった。4畳半一間、共同トイレ、風呂なしの小さなアパートで、戦災でも焼け残ったとおぼしき下町の一角にあった。もう40年以上も前のことだ。管理人は山本さん、奥さんと娘さん一家。今日、その奥さん(おかあさんと呼んでいた)の葬式に参列した。当時山本さんの部屋にはほとんどの毎週末、私のような独身のむさい男数人が寄って、おかあさんや山本さんの手料理をごちそうになった。 山本さんは北海道の利尻島生まれ。幼いころに両親を相次いで亡くし、秋田の親戚の家に預けられた。その後上京、西日暮里の町工場に勤めた。人知れぬ苦労をしたと思われるが、それを語ることはほとんどなかった。経済的には決して豊かではないと思われる家計の中で、いつも嫌な顔ひとつせず、歓待してくれた。 私が勤めていた会社に、山本さんから「今日は夕ご飯作って待ってるから、食べないで帰ってきて」と電話があることもしばしばであった。電話を受けた職場の女性から「今日も山本さんから電話があったヨ」と名前を覚えられるほどであった。私は会社で思うようにいかない日々が続いていて、鬱屈していた。
16日 9月 2023
1970年11月25日は三島由紀夫が自決した日だ。私は当時高校3年であったが、何時限目かの休憩時間に、同級生の一人があわただしく教室に飛び込んできた。「三島由紀夫が死んだ。割腹自殺だ」と叫ぶと「おい本当かよ」と教室全体がざわついた。彼は職員室かでその情報を得たのだろう。当時の私は三島の思想や行動に全く共感を持っていなかったので、作品を手に取ることもなかったが、割腹自殺という行為には衝撃を受けた。その衝撃の大きさとともに記憶しているのが、「亀島は三島の死について何を話すのだろうか」と、私たちはその後の現国の亀島先生の授業を固唾を飲むようにして聞いたことだ。亀島先生は生徒のみならず、諸先生からも畏敬の念でみられる存在だった。職員会議でも亀島先生が校長や教頭を差し置き、主導していたらしく”亀島天皇”などと陰で言われていた。先生は三高から東大という経歴で、青臭いことを言ったり、書いたりする私たちを、「君たちはアホちゃうか」と関西弁で揶揄嘲弄したのだった。「亀島は太宰の弟子だったというぜ」と生徒のあいだでうわさされてもいた。
12日 9月 2023
平等山福祉寺
伊勢崎に行く用事があったので、ちょっと足を延ばして旧境町にある平等山福祉寺に行った。袰川恵子著『裁かれた命』というノンフィクションの終章に「澄みきった青空の下、その日も遥か遠くに赤城山が望めた。私たちが訪れた平等山福祉寺は、たくさんのひばりの賑やかな鳴き声に包まれていた。抜けるような青空を背に、観音様は静かに微笑んでいた。」と書かれた場所である。1966年(昭和41年)に東京の国立市で抵抗した主婦を殺害し現金を奪った強盗殺人事件が起こった。犯人は当時22歳。最高裁で死刑が確定したのが1968年。そしてその約3年後に刑が執行された。今から約50年前のことである。なぜこの青年が死刑にされたのかを追ったのが『裁かれた命』。
24日 8月 2023
「筒香嘉智内野手(31)が米大リーグ、ジャイアンツとマイナー契約で合意したことが20日、分かった。」という記事を見つけた。かつては侍ジャパンの4番も打ったことのある筒香選手。鳴り物入りでアメリカに渡ったが、鳴かず飛ばず。球団が変わっても結果を出せなかった。マイナーリーグに降格。そして今季はさらに独立リーグへと都落ち。まだ31歳、日本に戻れば複数の球団から多額の年俸で声がかかる実績の持ち主。でも我が筒香は地べたを這いずり回り、もがき苦しんでも日本に帰ろうとしない。大谷選手や吉田選手の活躍が連日ニュースになる中で、筒香選手はすっかり忘れさられた存在になった。しかし、きょうのうれしいニュース。結果によっては今季中にメジャー昇格もあり得る、という。ガンバレ筒香選手、応援してるよ。ゴーゴーツツゴー!!
前橋空襲 · 22日 4月 2023
前橋空襲記録
前橋市が戦後50周年の際に発刊した『永遠の平和を願って』という戦争体験者の記念文集をデジタル化している。私の担当は前橋空襲の体験者の部分。昭和20年8月5日の空襲時、降ってくる焼夷弾の雨の中を逃げまどい、家を焼かれ、家族を失い、自らも火傷を負ったり、黒焦げになった死体を目にしたり、とまさに地獄絵ともいうべき悲惨な体験が綴られている。空襲の記録はまず被害者であるという視点で書かれている。それは当然だが、当時の日本人は戦争の被害者であると同時に、特にアジア諸国の人々に対しては加害者でもあったはずだ。その点である種の精神的なすわりの悪さを感じる。Wordの校正をしながら気がついたことがある。悲惨な体験を記す中に、非人道的な無差別爆撃をしたアメリカ人への憎しみや恨み、批難といった言及が全くといっていいほど無いのだ。空襲があたかも地震や津波などの自然災害に遭ったかのようなのだ。こんなひどい目にあわせたアメリカに対する憎しみをなぜ持たないのだろう。これは日本人の思考の特性なのだろうか。だからアジアの人たちも日本に対する憎しみ、恨みも持たないに違いないと思ってしまいはしないだろうか。
news · 17日 3月 2023
敬愛する人事コンサルタント太田隆次氏の著書『万葉時代のサラリーマン』に触発されて「平安時代のキャリアウーマン」という古典エッセイを書いている。いまは『枕草子』である。清少納言は和歌を詠むスキル、中国の古典など漢籍の知識、当為即妙なレスポンス力などその才気煥発ぶりは、平安時代のキャリアウーマンのなかでその有能さにおいて随一である。紫式部は『紫式部日記』のなかで、そんな清少納言を「得意顔で利口ぶって書いているけれども、漢字も漢文もわかっていない。あんな人の行く末なんかたいしたことないわ」(田辺聖子訳)とけなしている。清少納言と紫式部は宮仕えの時期が数年ずれていて、二人が実際に顔を合わせたことはなかったと言われる。他のキャリアウーマンに対するその辛辣な批判ぶりから、紫式部は底意地の悪い性格だったのではないかと、好みが清少納言派と紫式部派に分かれるようだ。来年のNHK大河ドラマは紫式部が主人公のようだ。二人がどんな風に描かれるか、いまから楽しみだ。
15日 12月 2022
ジャコ・パストリアス
35年ほど前、ジャコ・パストリアスという天才ベーシストが亡くなった。死因は脳挫傷。フロリダで深夜、酔っぱらってあるバーに入ろうとして、用心棒と争いに。アスファルトの地面に何度も頭を打ち付けられ、眼球の片方が飛び出ていたという悲惨な状態だった。 ジャコは20代後半の6年間、ウェザー・リポートというジャズ/フュージョンバンドに在籍、エレクトリックベースの革命児としてセンセ-ションを巻き起こした。しかし、富と名声を得ると、昔ながらの友人は彼のもとを去り、ジャコの名声に吸い寄せられた人が群がり次第に酒と薬にまみれるようになり、音楽人生が変調をきたし始める。ウェザー・リポート時代の後半には、リハーサルをすっぽかしたり、わがままな振る舞いをするようになる。 ウェザー・リポートを脱退後、ワード・オブ・マウスという自己のバンドを結成、世界ツアーも敢行する。しかし、次第に演奏の良い時と悪い時の振幅が大きくなってゆく。 ステージでの傍若無人の振る舞いに音楽活動もできなくなってしまう。生活も乱れ、ついに路上生活に。 1987年、希代のベーシストの人生はついに破滅してしまう。35歳という若さだった。

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