日経新聞の土曜日の紙面に「リーダーの本棚」という連載がある。先週は電通の社長佐野傑氏のインタビューが載っていて「ビジネス書に「人間」を学ぶ」と見出しにある。自分は仕事のためにビジネス書を読むことが多い。しかし自分のビジネス書の選択のせいかビジネス書を読んで「人間」を学んだと思ったことはない。反対にビジネス書ばかり読んでいると何やら精神がやせ細るような気さえしてくる。そこでバランスを取るために小説などを読むことになる。ヘミングウエイ『老人と海』。ずっと昔読んだおぼえがあるが内容は忘れてしまっていたので新鮮だった。昨年小笠原へ行くとき長時間海の上にいる経験をしたからか、老人と海がよりリアリティを持って感じられ、自分がカジキマグロと格闘している気さえしたのだった。
「私が卒業した群馬県立前橋高校の国語教師に亀島貞夫(1921-2007)という人がいた。」という書き出しから始まる高草木光一著『書かれざる戦後思想 元学徒兵・亀島貞夫の躓きと希望』が4月に出版された。一気に読んだ。「亀島天皇」という別格の存在である意味をこめた呼称は私の高校時代にもささやかれていた。「職員会議で校長の言葉など差し置いて亀島の一言で結論が決まってしまうらしいぞ」あるいは「亀島は太宰の弟子だったらしいぜ」というように。多分に漏れず私も亀島先生の存在に圧倒された一人であった。他の教師の授業にはほとんど身が入らずとも亀島先生の授業だけは一言も聞き漏らすまいとノートをとっていた同級生もいた。亀島先生の現国の授業はこんなふうだった。まず一人づつ当てて教科書を生徒に読ませる。その後「何か質問のある者はおるか」と聞きながら、教科書に載った作品について解説する。解説というより関連した作家、夏目漱石などの文人や野間宏、中野重治、大江健三郎たち現代作家に触れながら滔々と自説を弁じて行く。
25日 4月 2025
会社員時代、それもはるか昔 会社が従業員向けに英会話教室を開いたことがあった 終業後、会議室で週1回受講できた ある時の教師は赤ら顔で細面の神経質そうな米国人 その教師がある日の授業開始時に“ヤク—ト”と叫んでいる 何のことかわからなかったが プロ野球ヤクルトスワローズが優勝したことを喜んでいることがわかった 熱狂的なヤクルトファンだったのだ この教師 名詞の前につく定冠詞theをザではなくジと発音した受講生の一人に その発音がおかしいという 私たちが母音から始まる名詞の前のtheはジと発音すると学校で習ったというと それは間違いだと言い張るのだ 私たちは顔を見合わせるばかりだった
別の時の教師はロッド・スチュワートファンのカナダ人 彼が私に貸してくれた本があった その経緯は忘れてしまったがサマセット・モームの「月と六ペンス」だ 家に帰って読み始めたが、私の英語力では辞書を引きひきでないととても歯が立たない これでは読み終えるには気が遠くなるほどの時間がかかると思い知り、ギブアップ 2~3か月後“読んだよ ありがとう”と返却 彼から感想を聞かれなかったので正直ホッとした
自川場村歴史民俗資料館には江口きちと井上日召の2つ資料室が隣合っている。といっても井上日召の部屋は小さい。以前に来たときは江口きちが目当てだったので井上日召の部屋は素通りしたので今回は日召の資料を見る。しかし書の掛け軸と写真しかない。がっかり。
井上日召は戦前の血盟団事件の首謀者である。なぜ彼に興味をもったかというと、高校の先輩だからだ。川場村に生まれた日召は前橋中学に進学、同学年には萩原朔太郎がいた。しかし二人ともほとんど目立たない生徒だったという。華々しく活躍していたのは、1学年うえで愛国心とキリスト教にもとづく論考などを校友会誌に発表していた高畠素之だ。のちに朔太郎は近代詩を代表する詩人に、素之は日本ではじめて『資本論』を翻訳し、大正‐昭和初期を代表する国家主義者になった。一方日召は政治家や資本家などが日本国家を腐敗させているとして、国家改造を目指す狂信的な天皇崇拝者となった。日召をリーダーとするグループは昭和7年、一人一殺のテロ行動を起こす。前蔵相の井上準之助、三井財閥総師団琢磨を殺害した。「血盟団事件」と呼ばれる。
07日 7月 2024
梯久美子のノンフィクション『散るぞ悲しき-硫黄島総指揮官・栗林忠道』読んでいて、会社員時代からの友人が以前仕事で硫黄島へ行ったという話をしていたのを思い出した。私が勤めていた会社は機械メーカーでその製品のひとつに自動販売機があった。S君は、私と同期入社で自販機の営業マンだった。改めて電話で当時の話を聞いてみた。自衛隊の輸送機に乗って硫黄島へ行ったのは1978年ころだったという。小笠原諸島が日本に返還されたのが1968年なのでその10年後である。硫黄島激戦の前に約千人いた住民は避難していた。後には栗林中将率いる約2万人の日本軍が島を守って戦い、全滅した。返還後も旧島民は帰還を許されなかったので、その後住んでいるのは自衛隊と工事などの関係者だけである。その自衛隊の宿舎に自販機を設置するためにS君が派遣されたのだ。設置を終え、本土に戻る輸送機の窓から見ると自衛隊員が整列して見送ってくれたという。「綺麗な青い海と焼け爛れた壕が印象に残っている」S君の述懐である。いまだに多くの遺骨が眠る硫黄島の土地に設置された自販機はその後どのくらい立っていただろうか。
自宅から歩いて30分ほどのところにこんもりした塚がある。今は散ってしまったが桜の樹が一本植わっている。周囲は麦畑でどこを見渡しても塚に行く道は見当たらない。農家の人に申し訳ないと思いつつ、麦を踏み分けて行ってみると、市の案内板があり、経塚古墳、径30m、高さ3mの円墳とある。ほんとうにちっちゃな古墳だ。
「前橋台地は利根川が赤城山と榛名山の山麓の間から、関東平野に流れ出した所に広がる緩傾斜の台地である。」(『前橋風・創刊号』)利根川は前橋台地を突き抜けて南北に流れているが、以前は台地のへりに沿って、赤城山の南山裾を流れていたという。現在の広瀬川である。昔はダムや堤防など治水などなかったので、大雨のたびに広い川幅になって関東平野を流れ下った。
現総社から東善町にかけての台地の北東側にはかつて数多くの古墳があった。台地のヘリにあたる朝倉広瀬地区に限っても150基はあったという。前橋台地の古墳群の脇をとうとうと流れる古代の利根川の風景を思い浮かべると何かロマンを感じる。
06日 12月 2023
石垣りんの未刊詩集が発行されたと、昨年の今頃新聞に出ていた。その詩集を発行した南伊豆町の町立図書館内の「石垣りん文学記念室」に一度行ってみたいと思いながら果たせないでいる。
現代詩は難解なのが多くとっつきにくいが、石垣りんの詩はそんな私でも読める。エッセイの名手と言われるのは向田邦子だが、石垣りんのエッセイも味わい深い。その中でも「花嫁」と題したエッセイが最も印象に残る。800字程度の短いものなので全文を引用してみる。
私がゆく公衆浴場は、湯の出るカランが十六しかない。そのうちのひとつぐらいはよくこわれているような、小ぶりで貧弱なお風呂だ。
その晩もおそく、流し場の下手で中腰になってからだを洗っていると、見かけたことのない女性がそっと身を寄せてきて「すみませんけど」という。手をとめてそちらを向くと「これで私の衿を剃って下さい」と、持っていた軽便カミソリを祈るように差し出した。剃って上げたいが、カミソリという物を使ったことがないと断ると「いいんです、スッとやってくれれば」「大丈夫かしら」「ええ、簡単でいいんです」と言う。
04日 11月 2023
モダンジャズの帝王と言われたマイルス・デイビス。1950年代、若きマイルスは「カインド・オブ・ブルー」を始めジャズ史上に残る数々の名盤を発表した。その中にギル・エバンスとコラボした作品がある。「マイルス・アヘッド」「ポーギーとベス」「スケッチ・オブ・スペイン」である。ギルはカナダ生まれの白人の作編曲家。当時編曲の報酬は1曲あたりいくらと定額払いだった。いくらレコードがヒットし、売れてもその富と名声は全部マイルスのものになった。でもギルはそんなことに拘泥しなかった。ひたすら自らの音楽を追求し続けた。収入は不安定、しかも商業的な仕事はがんとしてやらなかったのでいつも貧乏だった。妻だったアニタはこの評伝のなかで、こども2人抱えて、銀行口座の預金残高は0、食事にも事欠き、マイルスにお金を借りに行ったことがあった、と言っている。フレンチホルンやチューバなど低音楽器を使ったギルのオーケストレーションは音の魔術師ともいわれる華麗なものだ。1980年代、ギルはオーケストラを率いてニューヨークのジャズクラブ“スイート・ベイジル”で毎週月曜夜に出演した。当時CDでそのライブ演奏を聴き衝撃を受けた。
20日 9月 2023
独り身のときに西日暮里のアパートに住んでいたことがあった。4畳半一間、共同トイレ、風呂なしの小さなアパートで、戦災でも焼け残ったとおぼしき下町の一角にあった。もう40年以上も前のことだ。管理人は山本さん、奥さんと娘さん一家。今日、その奥さん(おかあさんと呼んでいた)の葬式に参列した。当時山本さんの部屋にはほとんどの毎週末、私のような独身のむさい男数人が寄って、おかあさんや山本さんの手料理をごちそうになった。
山本さんは北海道の利尻島生まれ。幼いころに両親を相次いで亡くし、秋田の親戚の家に預けられた。その後上京、西日暮里の町工場に勤めた。人知れぬ苦労をしたと思われるが、それを語ることはほとんどなかった。経済的には決して豊かではないと思われる家計の中で、いつも嫌な顔ひとつせず、歓待してくれた。
私が勤めていた会社に、山本さんから「今日は夕ご飯作って待ってるから、食べないで帰ってきて」と電話があることもしばしばであった。電話を受けた職場の女性から「今日も山本さんから電話があったヨ」と名前を覚えられるほどであった。私は会社で思うようにいかない日々が続いていて、鬱屈していた。
16日 9月 2023
1970年11月25日は三島由紀夫が自決した日だ。私は当時高校3年であったが、何時限目かの休憩時間に、同級生の一人があわただしく教室に飛び込んできた。「三島由紀夫が死んだ。割腹自殺だ」と叫ぶと「おい本当かよ」と教室全体がざわついた。彼は職員室かでその情報を得たのだろう。当時の私は三島の思想や行動に全く共感を持っていなかったので、作品を手に取ることもなかったが、割腹自殺という行為には衝撃を受けた。その衝撃の大きさとともに記憶しているのが、「亀島は三島の死について何を話すのだろうか」と、私たちはその後の現国の亀島先生の授業を固唾を飲むようにして聞いたことだ。亀島先生は生徒のみならず、諸先生からも畏敬の念でみられる存在だった。職員会議でも亀島先生が校長や教頭を差し置き、主導していたらしく”亀島天皇”などと陰で言われていた。先生は三高から東大という経歴で、青臭いことを言ったり、書いたりする私たちを、「君たちはアホちゃうか」と関西弁で揶揄嘲弄したのだった。「亀島は太宰の弟子だったというぜ」と生徒のあいだでうわさされてもいた。