二か月後、同じ思想を持つ海軍青年将校らが官邸を襲い首相の犬養毅を殺害した。五・一五事件だ。事件で捕らえられた被告らには多くの国民から減刑嘆願運動が起こされたという。昭和恐慌という不景気で農村では娘を売らざるをえないほど生活に困窮した庶民の間に社会への不満があった。とはいえ井上日召は胸を張れる先輩とは言い難い。
当時国家改造と対外進出を目指す右翼テロリズムには三つの流れがあったという。井上日召、菱沼五郎らの血盟団グループのほかに、三月事件、十月事件など軍によるクーデター未遂事件を起こした、大川周明、橋本欣五郎らのグループ。大川は戦後の東京裁判で戦犯として被告となり、前に座った東条英機の頭を後ろからひっぱたいた映像を観たことがある。三つ目は北一輝、西田税らのグループ。北や西田は二・二六事件の首謀者として銃殺刑になった。
日召が血盟団事件を起こしたころ、川場村の江口きちは十九歳。二年前に母親が亡くなり、知的障害の兄と妹を養うため勤めていた沼田郵便局を辞め、母の飲食店を継いでいた。そのかたわら短歌をつくり始めていた。昭和恐慌で地方経済も疲弊していて、母の借財もあってきちの生活は困窮した。父母の墓を建て、妹たきを東京の美容院に就職させると、貧困に追い詰められたすえに、きちは兄を道ずれに青酸カリを飲んで自死する。二十五歳だった。
時は昭和十三年、井上日召らのテロリズム、青年将校らのクーデター事件を利用した軍部主導の日本は戦争への道を突き進んでいった。
のちに吉本隆明は記憶に残る短歌として江口きちの辞世の歌をあげた。
睡たらひて夜は明けにけりうつそみに聴きをさめなる雀鳴き初む